ストーリー:
「セラピストになって本当に良かった」
多摩リハビリテーション学院専門学校で教員として働く先生方は、現役のセラピストでもあります。そんな先生方からセラピストになって良かったと感じた体験談を物語にしました。
言語聴覚士
山﨑暁
多摩リハビリテーション学院専門学校 言語聴覚学科 教員
リハビリテーションへの興味から言語聴覚士を目指すまで
これは言語聴覚士がまだ国家資格ではなかったころの私の経験です。
私が小学生の時に祖母が脳軟化症を患い、母が祖母を介護していました。祖母は次第に体力が衰え、私が中学生になった頃には寝たきりになりました。生活のすべてがベッドの上でしたが、食事の時だけは笑顔であり、唯一の楽しみのようでした。
しばらくして祖母は亡くなりましたが、私は祖母の介護を通じ、リハビリテーションに興味を持ち、高校生の時、専門学校へ見学に行きました。専門学校の先生に「これからは脳の世紀がやってくる。今まで治療が困難だった病気も脳の機能が解明されれば対処法がわかる。脳の機能には言葉を理解したり、食べたりという機能も含まれる。言語聴覚士はコミュニケーションと食べることに関わる仕事で貴重な存在になる」と熱く語りかけてくださり、衝撃を受けました。祖母の介護体験と、この教員の言葉が言語聴覚士を目指したきっかけです。
コミュニケーションは人の心を動かし、回復力を引き出す
その男性は44歳の時、脳卒中を患い、右片麻痺と失語症が残ってしまいました。私と出会った当初は落ち込んでいて「ことばはどうですか?」と質問すると「ダメだね」と返し、後ろ向きになっていました。私はこの方が正しく話すことにこだわりすぎているのではないかと感じました。高い理想は現実との差から自己嫌悪感を生みます。「できる自分」を過小評価し、回復の芽を摘むのです。
そこで、「顔を上げて話す」「笑う」「『できること』を自覚する」「『できること』で意思表現する」を目標として、ご家族の協力を得ながら訓練を進めたのです。すると、会話ができたことを嬉しそうに話してくれたのです。
失語症は、工夫次第でできることもあります。この方は小学2年生の娘さんに九九を平仮名で書き、音読して教えることができました。私は人間の回復力を信じています。
回復力を引き出すのはコミュニケーションの力です。人の心を動かすコミュニケーションに携わる言語聴覚士という仕事に、やりがいと責任を感じています。
作業療法士
林義巳
多摩リハビリテーション学院専門学校 副学長兼教務部長
選手としての大成を諦めた時に、作業療法士の存在を知る
中学・高校時代は、バレーボールに熱中しました。部活をするために学校に通うような生徒でしたので、将来は体育の先生になろうと考えていたのです。
ところが腰を痛めてしまい、ひどい時は歩くことさえままならない状態になってしまい、選手として活躍することができなくなり、思い描いていた将来の目標を完全に見失ってしまいます。
「リハビリの先生」という職業を知ったのはそんな時でした。いろいろと調べてみると、それまで知らなかったことがわかってきました。特に興味を持ったのは、精神的・心理的なリハビリもできる作業療法士でした。それまで漠然と抱いていた作業療法士のイメージは、白衣を着て病院で働く仕事、という程度で具体的なイメージはなかったのですが、いざ実習で子どもたちとふれあったりすると、非常にやりがいを感じたのです。この仕事は自分に合っていると確信し、療育施設に就職しました。
かつてサポートした障害を持つ子との再会に、喜びがこみ上げる
就職して1年目。まだ新人の頃です。担当した子どもの中に、ダウン症の女の子がいました。運動発達の遅れがあったため、何とか追いつけるようにと、遊びを取り入れながら這い這いや歩く練習に取り組みました。
その甲斐があったのでしょうか、女の子は歩き出すことができるようになったのです。一歩一歩ですが、歩き出した時の様子を見たときの思いは、今でも忘れられません。お母様と一緒に喜びを共有した、最高の瞬間でした。その後、女児は療育施設を卒園し、普通保育園に入園しました。私から離れていくことになり、少し寂しさもありましたが、卒園式で女児を送り出したことも思い出深い出来事でした。
それから20数年という歳月が経ったある日、たまたま新聞でその子の名前を見つけました。書道家になり、東京の青山で個展を開くという記事でした。そして、再会。彼女は障害を抱えながらも頑張って生きてきた道のりについて私に話してくれました。長い時を経て再び、嬉しい瞬間に出会うことができました。
理学療法士
鈴木恒
多摩リハビリテーション学院専門学校 理学療法学科 教員
スポーツの現場で活躍できる理学療法士に、魅力を感じ志望する
私は小学校から高校までサッカーをしていたこともあり、将来はサッカーに関わる仕事に就きたいと考えていました。進路を決めるときには、高校時代に経験したケガや、チームメイトが受けた手術やその後のリハビリを受ける姿を見たことで、怪我をした選手をサポートするトレーナーの役割に興味を持つようになりました。
サッカー選手や指導者の道は難しくても、トレーナーとしてであれば好きなサッカーに関わっていくことができるのではないかと考えたのです。トレーナーという仕事を調べていく中で、日本には(アスレティック)トレーナーという資格は民間団体のものしかなく、多くのトレーナーが柔道整復師や鍼灸あん摩マッサージ師といった国家資格を取得して活動していることを知りました。
注目したのは、理学療法士。スポーツの現場や医療機関に就職できることがわかり、この職業を目指すと決めたのです。
リハビリテーションを乗り越えた選手が、試合復帰した時の感動は大きい
高校を卒業し、地元仙台の学校に入学して理学療法士の資格を取得しました。
就職したのは、Jリーグのチームドクターがスポーツ整形外科を標榜している水戸市の総合病院です。臨床2年目からは日立市にある高校のサッカー部でトレーナーとしてサポートさせていただきました。
当時は平日は病院で臨床業務、土日祝日は高校でトレーナー活動と、休日もない状況が数年続きましたが、充実した日々を過ごしていたと思います。特に怪我をした選手が、病院でのメディカルリハビリテーション、グラウンドレベルでのアスレティックリハビリテーションを乗り越えて試合に復帰したときは、喜びを分かち合えたという想いと共に、理学療法士になってよかったと思える瞬間でした。
現在も月に数回程、茨城県で育成年代の選抜チームに関わっています。医療機関での医師の診断の元で行う理学療法や、グラウンドレベルでリハビリテーションに尽くせること、それがこの仕事の醍醐味です。